自分本位の知的欲求

2005年8月18日
とある本を読んで考え込んだ。

その本では、主人公が自分の身体を入れもの、精神を主体として物事を言った。
あたしもそう考えていた。誰だってそうだと思う。
しかしその主人公と話している相手は「逆に考えてみるのもいい」と言った。
肉体を主体と考え、精神があらゆるもので作られ身体に入り込んでいるものだとすればと。
「そう考えればいいのか」と思ったよ。
そう考えれば、悩んでいた入れものと精神との間で悩むこともなくなるのではと。
けど考えをすすめると、死ぬ時は魂だけ消え体は残ってやはり不要になったいれものとされ、あるいは動かないものは不必要となり、燃やされるではないか。と思う。
それに自分にはないが、幽体離脱とかで身体はそこにあって上から自分を眺めているとか、自分の身体はそこにあるのに違うところに行ってきたとか、そういうのを聞くと、やっぱり身体は「入れもの」と考えるべきなのかと思う。
しかしよく考えてみる。
その魂や精神、身体から離れると思われがちなことは結局は自分の「意識」と言うことではないだろうかと。
「意識」と呼ぶにとても相応しいものだと思う。
そう思って気がついた。
さうらももこの本で、そんなことが書かれていたなと。
それにとても同意する。

意識だから本来はすべて自分のもので、やはり別々に考えるのは困難で、自分が生まれてから死ぬまで、どうしたって自分であり、身体も心も考えることも感じることもすべて自分の意識と身体で受けるものなんだと。

その私たちが考える肉体と精神がもし別のものであったとしても、その身体と意識は同じ時に現れ、同じ時に消えるものなんだなと。
きっとそうでしょう?

あたしはあたしなりの考えをまとめて記しておかない時が済まないんだ。
誰の意見も聞いても、自分の考えはなかなか変わらない頑固なところがある。
だから自分の考えることによって、興味のあるものから影響を受けることによって、新しい自分を見つける。
その欲求できっと生きている。

その欲求が続けばいい。

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